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ねぎとろ丼

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乙女恋愛狂想(前編)

※オリキャラが出ています。苦手な方はご注意を。また、所によってはグロテスクな表現があります。



   『乙女恋愛狂想』


 ここは幻想郷。特定の血筋を引いた人間が巫女の仕事をし、結界を以って現世と分け隔てている夢幻の世界。
 妖怪という、科学にまみれた人間が信じようとしない存在が人間と共存している空間。
 私は八雲紫。巫女とは別で、結界の綻びを管理する者だ。
 私はこの幻想郷を愛する妖怪の一人。もうずっと昔から生きてきている。
 幻想郷で生まれ、死に、転世して生まれ変わり、また死んでいく。そういう人間達を何度も見てきた。
 成人し、結婚を経て子供を作り、老齢で死んだ者。妖怪と戦って死んで行った人間。戦うことすら出来ずに妖怪の餌となる人間。
 魔術に手を出し、身を滅ぼした者。妖怪に成ろうとし、失敗した者。或いは神になろうとし、神々の怒りに触れた者。
 そうした者達を見続けながら、今日も私はこの世界に生きている。
 今日もまた誰かが死に、誰かがこの世に生まれてくるのだろう。
 そうして人々や人でない者達、魂達がこの世とあの世を廻り続ける。
 巡り廻って、輪廻転生。三千世界に終わりなき連鎖が生まれて、万物は円環する。
 私はそういった者達を観察し、暇潰しにその輪の境界を弄ぶ者なり。
 
  ※ ※ ※

 私は暇があれば幻想郷のどこか、そのときの気分で良さそうな場所を探して、そこから幻想郷全体を見渡したりした。
 この幻想郷に住んでいるありとあらゆる者達を観察するのが好きだからだ。
 私は幻想郷を愛している。そして彼らは幻想郷の一部。故に彼らも愛している。
 その彼らの活動を見ていて楽しくならないはずがない。

 いつからだったか、ある男の姿が目に付く様になった。里に住む人間のうちの、一人だ。
 男と言ってもその者はとても小さい。まだ生まれたばかりの男児だ。
 名前は知らないが里を散歩してみたり、遠くから観察しているとなぜか視界に入ってくるのだ。
 別に珍しいことでもない、と私は考えていた。
 里で目立ったことをしている人間を見つければ、自然とそういう者に視線を奪われてきたから。
 だが今気にしている男児はそういうものではない。特に目立ったことをしているわけでもない。
 稗田の一家みたいに特別な血筋の人間でもなさそうだ。それなのに興味が沸く。
 私はこの男児の観察を続けることにした。自分にはそれをやるだけの暇はある。
 どうせ普段の面倒事や仕事は使いの式、藍にやらせているのだから。

    ※ ※ ※

 男児の家は農家の様であった。
 里の中でも山に近いところで主に果物を植えているらしい。
 その家族らは総出で畑仕事を行い、豊穣の神に参拝し、出来た果物を里で売りさばいて生計を立てていた。
 家族の構成は父と母に例の男児。一人っ子ということになる。
 一家の表札は「中村」で、男児は両親から「カツヒコ」と呼ばれていた。
 なぜ私がここまで知っているのかは、私が近くまで様子を見に行ったからだ。
 私の名は幻想郷中に広まっているだろうが、変装していれば問題はない。
 身長、体格を縮め、髪の色を変え、化粧をし、服を変えればまず気付かれない。
 ごくごく一部の、妖怪退治を生業としている人間か巫女にしか変装した私が妖怪だと気付けないだろうから。

 男児の年は五や六の辺り。よく食べてよく寝、よく遊ぶといった年頃。
 近所の子供らからも評判が良いらしく、普通の子供と行ったところだった。
 今日はこの辺で観察を止めることにした。またふとした拍子に様子を見に来ることにしよう。

   ※ ※ ※

 男児、カツヒコ君の成長した姿を見に行ってみようと思ったのは、あれから何度かの季節が変わってからだった。
 また私は変装し、一家へ近づいて観察を試みた。
 カツヒコ君は大きくなっていて、男児というより少年と呼んで良い体になっていた。
 前に見たときよりもよく働くようになっている。体力が付いてきている年齢だろう。
 だが様子が変であった。一日かけてその家を観察してみたが、父親の姿が見当たらない。
 夜。境界を乗り越えて中村家へ忍び込んでみると、布団が二枚しか敷かれていなかった。
 カツヒコ少年と母親らしき人物しか住んでいない様だった。

   ※ ※ ※

 家の中の会話だけ聞ける様に小さなスキマを中村家に仕掛けて情報を集めることにした私。
 暫くそれらしい話が聞こえてこなかったが、三日ばかり経った頃にカツヒコ君らしき口が父親の死に関することを呟いた。
「山の妖怪が居なければ父ちゃんは……」
 確か少年のいる家は妖怪の山に近い所にあったはずだ。
 ということは山から下りてきた妖怪にでも襲われた、ということなのだろう。
「もうその話はおやめ!」
 少年の母親は夫の死を口にしたくないらしく、少年を叱った。
「絶対仇を取ってやる」
 少年はそう強く言った。
 一体どういう妖怪が中村家の主人を喰ったのかはわからないが、どうせ里に降りようとする様な妖怪だ。
 大して有名なものではないだろう。すでに巫女や里に居る少数の妖怪退治屋に始末されている可能性が高い。
 それに少年の言い様からすると妖怪であれば何でも倒す、と言っている風にも聞き取れる。
 ますます少年の成長が楽しみになってきた。どこまで育つのか、この目で観察させてもらおう。

   ※ ※ ※

 少年は毎日暇を見つけては弓の練習をしていた。
 最初の頃は動物を狩るどころか、的に当てることすら出来ない程下手であった。
 だが子供は物覚えが良いという言葉通りに少年は驚くほどの早さで成長していった。
 一年、二年経った頃に様子を見てみるともうびっくり。大人の狩人程の腕前に成長していたのだ。
 動かない的であればほぼ百発百中をしてみせるほど。空を飛ぶ鳥さえ狙って落とせるほどになっていた。

 この手の人間は数種類ある。
 諦める者。鍛錬不足で夢半ばに終わる者。別の道を探そうとする者。
 彼はその中でもきちんと目標を立て、そこへ集中出来る者なのだろう。
 はたしてこのカツヒコ少年は妖怪を憎む感情だけでどこまで突き進めるのか。楽しみはこれからだろう。
 彼の数年後を楽しみにし、また私は眠りに落ちた。

   ※ ※ ※

 一年で最も暑い時期がやってきた。トウモロコシが美味しい時期でもある。
 私は秘密兵器を用意しておき、例の人間のところへ行くことにした。
 このままの姿で出歩くのは何かと面倒なので、見た目年齢八歳程の少女に変装して少年の家へ近づいてみた。
 真っ白のワンピース。つばの大きな麦藁帽子を被り、夏の日差し対策も万全である。
 遠くから少年の住む中村家を遠くから観察していると、例の少年が訓練しているところを発見できた。
 母親の姿が見当たらない。家の中にいるのか、はたまたお出かけ中なのか。
 私はこれを好機だと判断し、思い切って少年に近づくことにしよう。
 スキマに手を伸ばし、秘密兵器の氷菓子を取り出して少年に声をかけた。
「ねーねー、何してるの?」
「何だお前、誰だよ」
「食べる?」
「……」
「とっても冷たくて美味しいのよ?」
「……くれ」
「うん」
 彼にあげたのは外の世界で言うところのアイスキャンデー。
 汗を流していた彼にはピッタリの贈り物だろう。きっと喜んでもらえる。
「私めりいって言うの。お兄ちゃんは誰? それで何をするの?」
「めりい?」
「そう」
「お、俺は勝彦。これはあれだよ、秘密の訓練さ」
 少し馴れ馴れしすぎるかもと思ったが、カツヒコ君は純粋な少年らしい。
 人間の振りをしてお菓子でも与えれば近づけるなんて、簡単なものだ。
 カツヒコ君は特に感想を言わずに食べるが、不味い等の不満を漏らさずあっという間にアイスキャンデーを平らげた。
「秘密の?」
「そう。母ちゃんはこんなこと辞めろ、なんて言うんだ」
「どうして?」
「危ないことらしいからさ。妖怪に喧嘩を売るのは無謀だ、って言うんだ」
「よーかい?」
「やべっ、秘密なのに言っちまったよ」
「あらあら」
 知られては困る、という風に口では言うものの、やはり人間。隠しごとを共有したい友達が欲しいものなのだろう。
 特訓について追求してみると、カツヒコ君は若干嬉しそうな顔をして弓を見せてきた。
「もっと大きくなって、もっと強くなったら俺は妖怪をやっつける、退治屋になるんだ!」
「へぇ~! 格好良いなぁ! カツヒコ君、すごい!」
「そ、そうかな」
 少々わざとらしくカツヒコを褒めてみたが、彼にとっては満足できる反応だった様だ。
「お前めりいって言ったっけ? お前の話も聞かせてくれよ! 今日から俺とお前は友達だ!」
 どうやら彼に認めてもらえたらしい。満面の笑みを浮かべる彼の表情に思わず惚れてしまった。
「んー、ダメ。私もう帰らないと」
「えー! どうしてだよー!」
「色々とね。それじゃあ! またね!」
「お、おい!」
 大きく手を振り、私も純粋そうな少女を気取ってみせた。
 彼の目が届かない所まで行くと周りに誰もいないのを確認してからスキマへ潜り込んだ。

   ※ ※ ※

 すぐさま自分の家に到着。自分にかけていた術を消し、変装を解除した。
 直後に部屋の襖が勢い良く開けられ、不機嫌そうな彼女が私に無断で入ってきた。
「紫様! どこに行っていたのですか!」
「あら、藍。ただいま」
「おかえりなさいませ……ではありませんよ。いつもいつも仕事を私に押し付けて」
 今こうして文句を言って来ているのは私の式神、藍。
 藍は私が前々からカツヒコ君に目をつけているのを快く思っていない様なのだ。
 特定の人間に付き纏うのは辞めた方が良い、としきりに言ってくるのである。
 今カツヒコ君の前から逃げたのはこのため。藍がうるさいから。
「また例の男の子を観察していたのですか。今日は何をしに行かれたのです?」
「挨拶に行ってきたわ。中々良い子だった」
「なっ!
「文句でも?」
「ありますよ! 紫様ほどの大妖怪がどうでも良い人間に目をつけるなんて……どうかしています」
「彼を悪く言うのはやめなさい。どうでも良い、なんて言い方は今後一切禁じます」
「あの人間は紫様にとっての何なのです? まさかあの少年に惚れたとでも言うのですか?」
「まさか」
「じゃあ、今後こういうことは止めてください。人間なんて所詮食料でしかないんですから」
「いやまあそうだけど、人間あってこその私達よ? 人間も時には大事に扱わないと」
「そんなことをすれば人間が付け上がるだけですよ。とにかく、巫女みたいな者でもないただの人間に近づくは極力避けてください」
「……」
 自分で拾い、自分で作った式にこうも一方的に説教されるとは思っていなかった。
 藍にはもっと徹底的に調教を施すべきだろうか。
 
   ※ ※ ※

 次に少年のところへ様子を見に行ったときには少年を通り越し、青年と呼べる年齢に達していた。
 体つきは大人と変わらないぐらい。肉体労働と弓矢の鍛錬によってついた筋肉は中々逞しい所まで来ている。
 私は自分に変装の術をかけ、以前カツヒコ君と会ったときの格好にして挨拶へ伺った。
 身長は少し伸ばしておこう。顔つきも若干変えておく。
 玄関から声をかけると彼が応じてくれた。顔にはまだ幼さが残っているが、少し年を食ったのがわかる。
「久しぶりじゃないか、めりい! でも……何か、あんまり変わっていないな」
 私の白いワンピースと麦藁帽子から昔を思い出してくれた様で、彼は私のことをめりいと呼んだ。
「カツヒコ君……だったよね?」
「ああ」
「声、少し変わったね」
「喉仏が出てきたからだ」
「入っても良い?」
「ああ」
 彼に入れてもらったお茶を飲みながら、堂々と家に入ったことである種の感動を覚える。
 家の中は狭く、せいぜい三、四人程度しか住めないだろう間取り。
 客間に当たるところも無さそうだ。部屋数も台所や風呂場を除けば二、三といったところだろう。
 貧乏なのかと思ったが、彼の着ている服は大してボロボロというわけでもないからそういうわけではなさそうだ。
 部屋の奥で内職をしている彼の母親は、美味しいものを食べてそれなりの肉と脂肪がついている感じ。
 父親が死んだからこの家は二人暮らしなのだろう。二人暮らしならまあ、十分な広さか。
 この家の人間は住まいに対して思い入れのない家族なのだろうか。随分と味気ない家だ。
「めりいはあれからどうしてたんだ?」
「うふふ、色々とね。秘密よ」
「今こうしてじっくり見てみると……めりいって不思議だな。目の色や雰囲気が何ていうか、外国の人みたいだ」
「あらそう?」
「里ではめりいを見たことがない。どこから来たんだ?」
「う~ん、言えないなあ。お家の人から漏らしちゃダメって言われてるの」
「そうか……」
 奥で内職をしていた母親は台所へ向かい、食事の準備をし始めていた。
 母親の表情は穏やかで、私のことを歓迎している様にも見える。
 会釈をすれば笑顔を返してくれた。この家族には好感が持てる。素直にそう思った。
「めりいは普段何をしているんだ? 謎めいていて、全く想像できない」
「そんなことないわよ。普通に皆と同じ様な生活してるわ」
「う~ん、そうなのかあ。本当に不思議な奴だ。それにしてもめりいって綺麗だな」
「あら、嬉しい。褒めても何も出ないわよ?」
「べ、別にそういうつもりで言ったわけじゃねえよ」
 彼は照れ隠しをするように下を向いてしまった。何て可愛らしいんだろう。
 そして私のことも偽りの姿とはいえ綺麗だと褒めてくれた。
 彼は私の素顔を見ても綺麗だと褒めてくれるのだろうか。
 私が妖怪だと知ってなお、綺麗だと褒めてくれるのだろうか。
「今日はもう遅いし、泊まっていきなよ」
「そういうわけには……」
「暗いのに外へ出るなんて、危険すぎる。妖怪が出るかもしれないのに」
「で、でも」
「母ちゃんが夕食を作っているみたいだし、そうようぜ。な?」
「……」
 彼は純粋そうな表情でそう言い、私を食事に誘った。
 断るに断れないまま、私は行きずりでご馳走に。
 彼の母親は私の正体に気付いていない様なので、まあ騒がれる恐れは無さそうだ。
 食事自体はそれなりに豪勢であった。特に貧相なものを食べている、ということもない。
 食うのには困っていない様である。彼の母親の料理も悪くない。
 ご馳走様をすると彼と彼の母親が食器を片付け始めた。
 隙を見てスキマに飛び込み、マヨヒガにいる藍に一言伝えておくべきか、と悩む。
 ただでさえ快く思っていない藍に「人家で一食一泊の恩を受けた」と言えば怒り狂うのが目に見えている。
 だから私は藍には黙っておくことにした。今はそういうことをしたくない。彼と過ごしている時間を大事にしたい。
「めりい? どうかしたのか?」
「え? ううん、別に。なんでもないわ」
「そ、そうか」
 食器の片付けが終わったらしい。母親と彼は奥の方へ行き、布団を敷き始める。布団は二組しかなかった。
「めりいちゃんはどこで寝るの? と言っても、勝彦と寝かせるわけにはいかないねぇ」
「……」
「そろそろいい年なんだし、おばさんと寝ることにする?」
「そ、そうね。そうさせてもらいます」
 彼の表情を伺うと、彼は顔を赤くしていた。女性に対して肉体的な接触は好まないらしい。
 とはいえ、私もさすがに彼と同じ布団で寝たいとは思わなかった。
 そんなことをすれば胸の高鳴りが激しくなりすぎて、どうにかなりそうだ。
 彼は布団に入ると私に背を向ける形で横向きになった。母親は疲れていたのか、すぐに寝入る。
 すぐ近くに憧れに近い存在のカツヒコ君がいる、という点ではむしろこっちが顔を背けたいぐらいだと言うのに。

 私はそれよりも、先ほどから企んでいることを実行すべきかどうかで悩んでいる。
 それは彼の母親を殺してみるべきか、ということだ。
 彼は妖怪を憎んでいる。彼は愛すべき父親を妖怪に殺された。
 残りの肉親である母親を彼の目の前で殺してしまったら、彼はどうするのだろう?
 そして母親を殺している私の姿を見て、何を思うのだろう?
 想像しただけで体が悶えた。口がにやけてきた。背筋が震えた。
 どうやって殺害しよう。どんな手段を用いて命を奪えばいいだろう。
 口を押さえていないと笑いが漏れてしまう。彼がすぐ近くで寝ているというのに、気付かれてしまいそうになる。
 でも楽しくて仕方がない。計画を練るという仕事に対してこみ上げてくる悦楽に酔いしれてしまう。

 冷静になって部屋の状況を考えよう。
 同じ布団の中に彼の母親。今母親は寝息を立てている。私の企みに気付いている様子なんてない。
 隣の布団に居る彼も同じく完全に眠っている。今が絶好の機会だった。
 私はスキマから何かしらの武器を探し、指に当たった短い刀を手に取った。
 深呼吸し、機会をうかがう。母親が息を吐いた瞬間を狙って手を伸ばした。
 片方の手で母親の口を塞ぎ、もう片方の手ですぐさま刀をねじりこむ。
 母親の寝間着にじわじわと血らしきものが滲んでいく。
 暗くて色はわからないが、生暖かい液体と言えば血液しか考えられない。
 少し気に入っていたワンピースも返り血によって濡れて行く。
 母親が暴れだしたが、心臓を手探りで狙って刀で傷つけると母親は動かなくなった。
 慌てて彼の布団へ目を向けると、彼は寝相で頭をかいていた。全く気付いていないらしい。
 雰囲気を出すために母親の死体をわざとらしく壊すことにする。
 手始めに指を全て切り落とし、そこら中に転がしておいた。
 母親の片腕をできる限り静かに切り離し、彼の枕と交換しておいた。
 次に母親の腹を切り開く。
 普通の人間ならぶよぶよとした触り心地に嫌悪感しか抱かなさそうな内臓を手当たり次第に切り取り、部屋の隅に投げた。
 お腹が減っているわけはないのでこの母親を食べる気にはならないが、雰囲気を出すために自分の口の周りを母親の血で濡らした。
 後は彼、カツヒコ君が目を覚ましてくれるのを待つばかりである。
 だが彼は中々目を覚まさなかった。
 母親の腕枕に気付かず、何度も寝返りを打ってはいびきをかくばかり。
 しかし鈍感な彼に対して怒りは沸いてこない。
 それどころか、彼が気付かない振りをしているのではないかと感じた。

 声を上げて驚くと私が喜ぶのを知っていて、わざと反応を示さないようにしているのはないだろうか。
 そう、彼が私を焦らしているのではないのかという一種のプレイ。
 私から声をかけて彼を起こしたらどうなのだろうか。彼はどんな反応をするのだろうか。
 驚いてくれるのか。憎んでくれるのか。私に敵意を向けに来るのか。
 私の口の周りに塗った血が乾き始めた。障子の向こう側が明るくなり始める。朝がやってきた。
 いい加減目を覚まして欲しい。もう待ちくたびれた。
 早くあなたの感情を爆発させて欲しい。あなたの叫び声を聞かせて欲しい。あなたに怒られたい。

「ん……?」
 待ちに待った瞬間。彼が眠たそうな声で枕の異変に気付いてくれた。
 さあ早く。驚いて。こっちを向いて。母親の成り果てた姿に恐怖を感じて。私を睨んで。
「うわっ!」
 ああ、何て素晴らしい声をしてくれるのだろう。
 彼は枕、母親の腕を蹴った。さぞかし驚いたであろう。私としては驚くよりも怖がって欲しいが。
 そしてついに彼がこっちを向いた。
「あっ!」
 彼が私を見ている。見てくれている。血に染まった短い刀を見ている。
 お気に入りのワンピースが赤くなっているのを見られている。
 わざとらしく濡らした口元も見てくれているはず。
「お前っ!」
 彼が激しく怒っているのが手に取るようにわかる。激昂している。大声を上げて私を威嚇している。
 もっと私に注目して欲しい。あなたが綺麗だと褒めてくれた私の本当の姿を見て欲しい。
 私は指を鳴らし、自分にかけている変装の術を解いた。
「お前、めりいじゃないのか!?」
「めりい、というのはあなたと始めて会ったときに考えた仮名にすぎない。私の本名は八雲紫」
「へぇ、そうか……それがお前の本当の名か。八雲紫って女が、俺の家族を無茶苦茶にしてくれたのか!」
 彼は跳んだ。私に飛び掛り、握り締めた拳を私の頬に打ちつけてくる。
 私を押し倒し、なお続けて顔を殴られた。左右の拳で何度も。本当の姿の顔を気に入ってもらえなかったのだろうか?
「殺してやるっ!」
 私の手から刀を奪い、私の胸へ突き刺した。引き抜いては刺してを繰り返し、私のドレスをボロボロにした。
 私のお洒落を気に入ってもらえなかったのだろうか?
「父ちゃんを殺したのもお前だろう!」
「さあ? とはいえ、知らないと言っても信じてもらえないんでしょうけど」
「当たり前だ! 妖怪の言うことなんざ信じられるか!」
 彼の手は休まらない。私の肉体を徹底的に破壊しようと努力している。
 でも私はこんなものでは死なない。死ねない。
 必死に私を殺そうとしてくる彼に微笑みかけた。
 カツヒコ君の悔しそうな表情が愛おしくなり、私の唇は釣りあがるばかり。
「くそっ……なんで、なんで死なねぇんだ!」
「妖怪だからよ」
 私の言葉を聞いて彼の手は止まってしまった。呼吸を荒くして私を睨んでいる。
 怒りと母親を殺された悲しみが混じった表情をしている。
「何で、めりいが」
「めりいじゃない。八雲紫よ。紫って、気軽に呼んで」
「ふざけるなっ!」
 彼は疲れきった体に残った力を振り絞った感じで、もう一度短刀で私の胸に突き刺した。
 私の胸はもう原型を留めておらず、筋肉や内臓がボロボロ。短刀は胸のあった部分を貫通して畳に刺さっていた。
「酷い、こんなになるまで」
「何がだ! お前の方が酷いだろうが! 父ちゃんと母ちゃんを返せよ畜生!」
「ドレスも……ああ、おめかしし直さないといけないじゃない」
「俺の話を聞け!」
「ちょっと待ってね、今綺麗になるから」
 私に覆いかぶさっているカツヒコ君を突き飛ばした。
 ほんのちょっと力を入れただけなのに、彼は向かい側にある襖へ体当たりでもしたかの様に吹き飛んで行った。
「ぐっ……!」
「あ、痛かった? ごめんなさいね」
 念じ、スキマの結界を発生させた。それに潜り、肉体を隠す。ついでに彼の傍へ結界を繋げて移動する。
 結界から出た私にはもう傷一つ残っていない。服も元通り。
 別に結界を潜らずとも怪我を治すことぐらい出来るが、こうやった方がおもしろく見えると思った。
 私に突き飛ばされたダメージなのか、それとも疲れてしまっているのか、彼はいまだに寝転がっている。
「化け物……め」
「怪我を治して、服も直したっていうのに……あなたは私を綺麗だと褒めてくれないの?」
「死ね妖怪。お前に綺麗だなんて言った昨日の俺に反吐が出る」
 彼の表情は憎悪そのもの。とうとう悲しみの表情をかき消すほどに怒りの感情が強くなっていた。
「酷い、カツヒコ君はそんなこと言う人じゃないと思ってたのに」
「ぶりっ子するのもいい加減にしろ! そうやって俺をおちょくって、何が楽しいんだ!」
「あらあら、妖怪は人間を弄んでこその妖怪なのに」
「黙れ!」
「もう、人に尋ねておいて黙れは無いんじゃない?」
「死ね!」
「んもう、カツヒコ君ったら暴力的よ」
 こうやって彼の感情を逆撫でするのが楽しくてたまらない。
 言葉で他人の感情や心を翻弄し、他人の感情や気を惹かせるのが気持ちよくって辞められない。
 起き上がろうにも起き上がれないでいる彼に覆いかぶさり、さっきとは反対の状況。
 私を殺したくてたまらないであろう彼は私の頬をまた殴った。目に涙を溜めて痛がってみると、彼はまた殴ってきた。
 私は彼の手を取り、私の頬に手を当てるよう誘った。彼は握り拳を作り、私の手を振り払って再度殴ってきた。
「俺に触るな、死ね」
「酷いわカツヒコ君、あなたのためにお化粧までしてきたのに」
「ぶっ殺してやる」
「私の髪の毛触ってみてよ、念入りにリンスしてきたの」
「気持ち悪い、死ね」
「……どうして私のことを気に入ってくれないの。私はこんなにもあなたのことを愛しているのに」
「親の仇に愛されるなんて言われても、ハラワタが煮えくり返るだけだ!」
 顔を覗き込む。唇と唇との距離を縮めていく。彼の憎悪に燃えて熱くなっているであろう彼の心を感じ取りたい。
 いっそ彼とまぐわいたい。彼となら性交しても良い。むしろ彼としたいと思えてきた。
 今ちょっとだけ後悔した。彼の母親と一緒に寝るんじゃなかった、と。
 彼と同じ布団に入って彼の体温を感じていられたのなら、どれだけ嬉しくなっていたか。
「ねぇ、カツヒコ君。私あなたに愛されたい」
「死ね、今すぐ死ね」
「死ねしか言ってくれないの?」
「そうだよ! それが俺の望みだ!」
 彼が一段と語尾を強める。胸に痛みが走った。また私の胸に短刀が突き刺さっている。
「へへっ、俺がこれを掴んでいたのを忘れていたのか?」
「……酷い、酷いわカツヒコ君」
「ざまぁ見ろ、くたばっちまえ」
「でもこんな武器じゃ私は殺せないって、さっきも言ったでしょう」
 胸の刀を抜き、彼の顔の傍に突き立てた。驚き、少し引いている彼に微笑みかける。
 私が胸から血を流してもなお彼を組み伏せているという状況に、カツヒコ君が心底驚いた表情を見せた。
「私を殺したいのなら、私の居るところまで来てみなさい」
「な、何を……」
「マヨヒガ。そこで私は待っているわ。ただの人間であるあなたに到達出来るのなら、そのとき相手になってあげる」
 指を振って合図をし、スキマを広げた。カツヒコ君がスキマの中を覗き込もうとするので、私は慌てて結界を閉じた。
「ちょっと、恥ずかしいから見ないでよ」
「……」
 彼は私の言葉に耳を傾けなかった。ただひたすらに私を睨んでいる。
 ここまで一人の人間に怨まれたことが今まであっただろうか。
 あったかもしれない。だがその中でも彼、カツヒコ君は一位、二位を争うほど私を憎んでいる気がしてきた。
 私から決して視線をそらさず、殺気の篭もった眼圧をこちらに与えてくる。
 ここまで睨まれることが気持ちよく感じることなど無かった。やはり彼は最高だ。
 夫として迎え入れたい、とはまでは言わないがお気に入りの殿方に分類しても良い程である。
 再度スキマを開き、彼にお別れの言葉を放った。
 すると彼は最後の力を振り絞ってか、短刀を私に向かって投げつけてきた。
 私は短刀が当たる前にスキマを閉じた。返してもらう程のものではないから、いっそ彼が持てば良いと思った。
 この後彼がどの様にしてマヨヒガまで来るのか楽しみだ。
 辿り着けずに道中の妖怪との戦いで命を落とすのか、それとも結界を飛び越えて私の目の前に現れるのか。
 マヨヒガの屋敷に戻ると藍が物凄い剣幕を見せてきた。仕事をしろだの、人間に近づきすぎだのと。
 私は彼女の怒る声を無視して自分の部屋に引きこもり、布団に入った。
 目をつむるとカツヒコ君の睨む顔が思い浮かぶ。本当に彼が楽しみだ。
 彼なら怒りのエネルギーだけで私の所へ本当に来る気がする。
 私は私のことをめりいと呼んでいた頃のカツヒコ君を思い出しながら眠りについた。

   ※ ※ ※

 つい最近人間側の結界を管理する者である、博麗の血筋を引くものが入れ替わった。
 いわゆる世代交代というものだ。年老いた巫女が娘に役職を託す、ということだそうだ。
 早速挨拶がてら新しい巫女を拝みに行ったのだが、なかなかどうして、食えそうにない巫女であった。

 新しい巫女や他の妖怪と宴会を繰り返したりして、彼のことをすっかり忘れてしまっていた自分。
 気付いたときには、もうあの頃から十年は経っていることになるだろうか。
 いくら頭の良い式神といっても、藍も彼のことなど忘れているはずだ。
 例の姿を変える術を使い、早速私は人里へ潜り込むことにした。

   ※ ※ ※

 少し急ぎ気味で彼の家があった所へ向かった。彼の顔を久しぶりに拝みたい。
 今まで忘れていたのは私のせいじゃない。私のところまで来てくれない彼が悪いのだ。
 家があった所へ着いた。あの少し寂しい、古い家屋。だが表札の名前が全然別のものになっていた。
 それどころか良く見てみると家の形が全然違うものであった。
 庭先でくつろいでいる住民らしき者が居たが、彼の姿はなかった。太った夫婦がお茶を飲んでいる。
 私に復讐心を燃やしていた彼は一体どこへ行ったというのだろうか。
 このままではらちが明かない。私は夫婦に彼のことを聞いてみることにした。
「あのう、すみません。ここにナカムラという男の人が居ませんでしたか?」
「……ああ、その人なら今は里の西側へ引っ越して行きましたよ。家を取り壊して土地を地主に売って、ね」
「で、あなた方はこの土地を買って、ここに住まれてると?」
「そういうことですね」
 一体どうして家を壊してしまったのだろう。私が少し酷いことをした様な気はするが……余り良く覚えていない。
「中村さんのこと、知らないのですか? この里の妖怪退治屋として有名なんですよ?」
「へえ……」
 夫婦の話によると彼は里の妖怪退治屋として働いているということ。
 私は夫婦に別れを告げて、里の賑やかな中心部へ行くことにした。
 今の時間は夕方を過ぎた夜。
 人の出入りが激しい酒屋に入り、主人に彼の話を伺ってみると彼は二桁を超える回数の妖怪退治に成功させていると教えてくれた。
 その手法というのは弓矢と短い刀を使ってのものだとか。
 彼のことを詳しく教えて欲しいと頼むと、手ぬぐいを頭に巻いた酒屋の主人は皮が荒れた唇を嬉しそうに開いてくれた。
「この辺であいつの名前を知らない奴はいねえだろうな。それぐらいあの男は腕が立つ。ま、博麗の巫女ってのには敵わないが」
「巫女というと、ここから少し離れたところに居る?」
「ああ、そうだ」
「でも彼はただの人間でしょう? どうしてそこまで」
「さあな。なんでもめりだったか、八雲って妖怪を追いかけてるって話だ」
「!?」
「どうかしたのかい? まあつまり、あの男はとある妖怪に恨みを持ってるってことだな」
「そう……」
 嬉しいと思った。彼はいまだに私を追いかけているのだ。追いかけている最中なのだ。
 妖怪退治屋として働きながら、腕を磨いているのだろう。私の所へ来られる日まで。
「ところでお嬢ちゃんは一体何者なんだい?」
「名乗るほどの者じゃありませんよ。ご馳走様でした」
 焼酎とおつまみの代金を置いていき、酒屋を後にした。
 今の時間帯は夜。仕事を終えた者達が酒屋に集まる時間帯。
 なんとしてでも彼に会いたい。もう一度顔を見たい。めりいでも、紫でも良い。名前を呼ばれたい。
 雑踏の中を何気なしに歩いていると、ある男が目に入った。
 いつからか、ずうっとこちらを見ている気がする。その男に視線を返すとの男の視線は睨みに変わった。
 その男の肌が微かな月光に照らされている。肉付きは凄まじいもので、ボディビルダーと思えるほど。
 顔立ちはいい感じに年を食っているという具合。二十台後半、と言ったところか。
 貧弱な妖怪であれば力負けしそうなほどの筋力を持って居そうな厳つい男。
 背中には弓と矢筒を背負っており、腰には短い刀を差している。
 次に男の表情を見たときには凄まじい憤怒のものになっていた。
「見つけたぞ!」
 男が叫んだ。それはとても懐かしい感じがするもので、つまり彼のものだった。
 男、いやカツヒコ君がすぐさま弓を構えた。周りにいる人々は彼の殺気に驚き、あっという間に下がっていった。
「変装したってわかるぞ。お前からバケモノの気配がする」
「あら」
 折角変装したというのにまさか気配で正体を見破られるとは思っていなかった。
 術を解くと周りにいる人々はすぐさま私が妖怪だということに気付いて逃げて行く。
「ここで会ったが百年目、てな」
「ん~、出来ればマヨヒガで相手をしたかったんだけど……折角だから遊んであげてもいいかな」
 顎に人差し指を当てて気取ってみると、眉間に矢を打ち込まれた。
 すんでの所で首を傾けて避けたが、驚かされる速度で矢は飛んで来ていた。
「お前を殺すために血の滲む思いで、俺はここまで強くなった」
「……うん、私も正直驚かされた。本当に強くなったのね、カツヒコ君」
「俺の名を呼ぶな!」
 彼が第二波の矢を放つ。今度は避ける体勢を作って挑んだので対処出来たが、なんと飛んできた矢は二本であった。
「お前を殺すために俺は矢を二本放つ方法を編み出したんだ」
 そして矢のかすった眉間に異変を感じる。じりじりとした痛みが気になった。
「矢の先には毒を塗ってある。並みの妖怪なら泣いて謝りだすほど痛いはずだ」
 彼がどの様にして妖怪を退治してきたのかようやく理解した。
 確かに彼はすごい。人間のくせにここまで工夫し、よく鍛錬してきたと感心した。
 でも彼にはまだ何かが足りない。私からすればまだ赤ん坊に等しく感じてしまう。
 弓矢の技術は凄まじいものを感じる。それこそ並大抵の妖怪となら対等に渡り合えるだろう。
 だが私に対してはどうだろう? まだまだこんなものは痛いで済ませられるものに違いない。
 私はこんな毒でやられるようなやわな妖怪ではないと自負している。
 こんなオモチャで私に勝つ気で居る彼に対して怒りがこみ上げてきた。私は舐められているのでは、と。
 再度放たれた二本の矢を私は手で掴んだ。すぐさまそれを折ってしまい、矢だったものを地面に叩き付けた。
「失望したわ」
「あ?」
「カツヒコ君ならもっと強くなると思っていたのに」
「なっ!」
「あなたには失望したわ。あなたにはもう何も期待しない」
 自信たっぷりであった彼の得意げな表情はあっという間に崩れてしまい、呆然とした表情に変わっていった。
 彼はこんなものではない。彼ならもっとすごい高みへ行けると信じている。だから私はあえて彼の自信を潰した。わざと彼に厳しくしているのだ。
 いかにも「これなら私を倒せる」と思っている彼に、私の恐ろしさを思い出させるために私は彼を叱咤激励しているのだ。
 もっと強くなってくれないと困る。もっと強くなってくれないと楽しめない。
 そして何より、もっと強くないとちょっと名の知れた妖怪程度に殺されてしまうと思った。
 こんな程度では人里に降りようとする愚かな弱小妖怪としか渡り合えないレベルだ。
 それこそ私ではなく藍が相手になっていれば、今頃カツヒコ君が喰われてると言っても差し支えない。
 もしカツヒコ君がマヨヒガに侵入できたとすれば、藍は全力でカツヒコ君を殺そうとするだろう。
 その藍に勝てるほどの強さを持ってもらわないと、藍に彼の存在を認めさせることが出来ない。
「ま、待ってくれ……俺は、これでもお前と肩を並べられないというのか? ここまで強くなったのに……」
「だから何? そんな程度で自惚れないで。あなたよりずっと若く、小さい女の子である博麗の巫女の強さを知ってる? その逞しい肉体を持ったあなたなんか、木偶の坊にすぎないわ」
「……」
 私は結界を開いた。もう彼に用はない。一刻も早く家に帰りたい。彼の顔など見たくない。
 そう思ってスキマに入ろうと背中を向けた所で風切音が聞こえた。刹那、胸に鋭い痛みが走る。
 背中から胸にかけて、彼が放ってあろう矢が深々と刺さっていた。
「こんなものでは私は死なない。例えいかなる毒を塗られていようが、私にとっては致命傷にならない。百万本撃たれようが……」
「本当にか?」
「……え?」
 振り向くと呆気に取られていたはずの彼の表情が笑顔になっていた。
 と、次の瞬間胸の痛みが急激に強くなった。純粋に痛い。一体これは何?
「それが俺の切り札だ。痛いだろう? 俺の怨念という名の毒がたっぷり仕込まれた矢だ」
 胸に刺さった矢をよく観察してみると札が貼られていた。
 札には魔除けか、結界にでも使われる様な言葉がつづられていた。それは血で書かれている様に見える。
「痛いだろう? 先代の巫女さんに教わった、対妖怪用の武器だ」
「あっ、ぐぐ!」
「もっと苦しめバケモノめ。いっそここで死んでしまえ」
 本当に苦しい。まさかこんなものを隠し持っていたなんて。
 物理的な武器しか持って居ないと思えば、きちんと妖怪向けの武器を持っていたなんて予想外だ。
 息ができない。体が上手く動いてくれない。私の無様な姿を笑う彼に睨みを返せない。
 私はただの人間であるカツヒコ君に対して、初めて退散してしまうことになった。

   ※ ※ ※

 通常魔除けの札は墨と筆、それに紙で作られる。
 だが稀に術者の体液を用いて魔除けの呪文を書いたり、特別神聖な材質で作る場合がある。
 こういう場合、普通に札を作るよりも効果が高くなることが多い。
 彼の場合であれば自分自身の血を絞って対妖怪の札を作った、と行ったところになると思う。
 単純な武器ではない。これはまさに、私にとって一番嫌な毒の一種と言えよう。
 私ら妖怪の肉体の限界など、人間のそれより遥かな高みに到達している。
 いくら刀で斬られようが、弓矢で貫かれようが、酒でも呑んで寝れば次の日には治っている。
 鉛弾を打ち込まれようが、爆弾で吹き飛ばされようが死ぬことはまずない。
 そんな妖怪にとって一番苦手なものは何か。それは精神攻撃である。
 チェーンソーやマシンガンなんて近代的な兵器は効かない。
 だが三種の神器を持ち出されたりするとどうだろう。錆びていようが、古来から伝わる謂われの込められたもの。
 かの有名なヤマタノオロチを倒すのに使われた剣、なんてものに斬られれば私はなす術もなく殺されるだろう。
 ここで挙げた一例は極端な話ではあるが、彼は妖怪が精神攻撃に弱いことをすでに知っているのだ。
 スキマを通って自分の部屋に帰ってきても胸の痛みは治まらない。いまだに胸に刺さったままの矢を抜こうとするが、矢に触ることすら苦痛。
 まるで博麗の巫女が妖怪退治に用いる陰陽玉である。陰陽玉が矢の形を成して私を貫いている様な錯覚を覚える。
 それでも声を上げて必死に矢を掴み、引き抜いてやった。
 傷口からは血が留処なく流れ出ている。いつもの様に治らない。傷口どころか出血さえ止められない。
 だがここまで来ればもう大丈夫だろう。人間がやっているみたいに止血するための包帯を巻いておけばそのうち治る。
「紫様! 紫様、一体どうされたのです!?」
 藍が大慌てで部屋に入ってきた。私の声を聞いて飛んできたのだろう。
 布団の上には血溜まりが出来ている。少々スプラッタな光景になっているが藍は驚かなかった。
「ああ、ちょっと博麗の巫女にやられちゃってね」
「……巫女は矢なんて使わないはずですが」
 引き抜くだけで精一杯だった矢を処分し忘れていた。
「一体どこのどいつです? 紫様をこんな目に合わせたのは!」
「……」
「どうして答えてくれないのですか!」
「あなたが首を突っ込むことではないわ。包帯を持ってきて」
「わかりました。例の男ですね?」
「っ!?」
「いくら私でも気付きますよ。今思い出しました」
 まさか感付かれるとは思っていなかった。藍の指摘に驚き、平静を装うことも出来ずに反応してしまった。
「私が勝手に里へ降りて調べましたよ。カツヒコという男が紫様を追いかけている、ということも」
「……」
「あの男は今から私が殺しに行きます。紫様はその怪我がありますし、安静になさってください」
「ま、待ちなさい! カツヒコ君を殺すなんて私は許さないわよ!」
「……あの人間は紫様にとって何だと言うのです? 紫様らしくありませんよ」
「あなたこそおかしいわ。なぜここまで私に文句を言うのよ? 恋愛ぐらい好きにさせなさいよ!」
「……わかりました、私はもう何も言いません」
「当然よ! 式ごときに私の邪魔なんてさせないわ!」
 藍は目を伏せて部屋を出て行った。まさか思わず恋愛、と言ってしまうとは思わなかった。
 改めて口にしてみると猛烈な恥ずかしさに襲われた。そう、私は彼に恋焦がれているのだ。
 そう思い返してみると、矢に貫かれた胸の痛みが愛しい彼を想って出来る痛みに思えてきた。
 さしずめ私のハートを彼に射抜かれた、と言ったところ。
 なんてロマンチックなことをしてくれたのだろう。彼に感謝しなければいけないかもしれない。
 早く彼がここに来てくれれば良いのに。私が最高のおもてなしをしてあげるのに。

   ※ ※ ※

 季節は何度も巡り廻る。博麗の巫女らと宴会を繰り返したりした。
 その頃にまた私は彼が愛しくなり、彼を探すことにした。

 今の季節は梅雨の時期であった。今は運良く雨が降っていないが、いつ降ってもおかしくない空色。
 いつもの様に変装し、里の酒屋へ向かった。

 酒屋に入ると若い男と女の声が私を迎えた。前に居た酒屋の主人は居なかった。
「あの、前に年のいった主人が居たと思うんだけど」
「ああ、あれは僕の親父です。その親父も結構な年だしということで、息子の僕が店を引き継いだんです」
「なるほど、そういうことね。そこの女性は娘さん?」
「いえ……僕の家内です」
 新しい店の主人は顔を赤くして照れた。さすが親子。前の主人に良く似た顔をしている。
「ねえあなた、カツヒコという人をご存知?」
「カツヒコというと……中村さんですか? 知らないわけないじゃないですか、中村さんは有名人ですから」
 いつもの様に焼酎とおつまみを頼み、彼のことを聞き出すことにした。
「彼は今どうしてるか知っている?」
「確か山の方へ行ってますよ。今朝お店に来られて、そう言って出て行きましたから」
「山ねぇ。そう、わかったわ。ありがとう」
「でもどうして中村さんのことを訊くんです? もしかして彼のことが好きなんですか?」
「……」
「隠さなくっても良いじゃないですか。そうなんでしょう?」
 若い新主人が朗らかな笑顔を見せてそう言い、近くのテーブル客へ酒を出しに行った。
「ええ、まあね」
 主人がカウンターへ帰ってくる。追加の注文をし、お替りの焼酎を注いでもらった。
「辞めておいた方が良いですよ。あの人、随分と無欲な感じの人ですから」
「というと?」
「今まで彼に交際を申し込んだ女の人は何人か居たらしんですけど、いずれも断ったそうです」
「どうして? 好みじゃなかったの?」
「違います。彼は邪魔だから、と言って断ったそうですよ」
「邪魔?」
「あの人、ある妖怪を追っているらしんですよね。確か名前は……めりいって言ってました」
「……」
 もう彼もかなり良い年に来ているはずだ。
 暫く見ていないが、前に矢を撃たれて別れた後から五、六年は経ってるだろう。
 今彼の年齢は三十台を超えた頃であろう。肉体的なピークが近づいてきている年頃。
 もうそろそろ私のところへ来ても良い頃なのではないか。
 というより、そろそろ来てくれないと困る。私が待ちくたびれてしまう。
 私は彼に会いたくなったので、もう店を出ることにした。
 いつもの様にお酒とおつまみの代金を置いて主人に頭を下げて出て行こうとする。
「あの」
「ん?」
 若い主人に引き止められた。何か彼に関わる情報でもあるのだろうか。
「すみません、今年は凶作でおつまみの落花生があまり取れなかったために値上げしているんです」
「……代金が足りないってことね」
「すみませんね」
 前の主人は面倒臭がってなのか、それとも良心的故か値上げなんてしなかったのに……と思いながら私はお金を足して店を出た。
 人の気配がないところを探してスキマを広げ、妖怪の山へ向かった。

 山へ入って妖怪や神々に適当な挨拶をしながら登っていくと、騒がしいところを発見。
 どうやら誰かが決闘をしているところだった。
 その内の一人は彼、カツヒコ君であった。相手は天狗。その中でも警備や哨戒の仕事をこなす白狼天狗であった。
 二人を刺激しない様気配と身を隠して二人の闘いを見物する。どちらも引かない、互角の勝負であった。
 天狗を良く見ればかなりの手練れの様子。下っ端等ではなさそうだ。
 そんな天狗と互角に戦う人間はなかなか珍しい。
 いつの時代にもこういう人間が一人や二人は居るものだが、それが彼になろうとは嬉しい限りだ。
 彼の戦闘スタイルは相変わらずの様だ。弓矢の飛び道具。そして短刀による白兵戦。
 その弓はいつもの弓ではなかった。腕にくっついているのだ。いわゆるボウガン。
 古来から伝わる大きな弓とは違う。扱い易く、矢の装填を素早くできる。
 弓が小さい分射程は縮まるが取り回しと連射性能は上がっているだろう。
 より効率の良い戦い方が出来る、と言った感じだ。
 一方の天狗は盾と刀での接近戦。カツヒコ君は斬り合いの最中に矢を使っての牽制を織り交ぜている。
 一番驚くのは妖怪同様、自由に飛び回ることの出来る機動力を持つ敵と対峙していようが、お構いなしに闘えているカツヒコ君の戦闘技術。そして人間より鍛えているであろう肉体を持つ天狗とも力比べをして、張り合える筋力を持っているカツヒコ君の体。
 天狗と鍔迫り合いになっても押すことは出来ないが、押されることもない彼。
 まさかここまで強くなっているとは思わなかった。そしてついに彼は天狗を倒してしまった。
 疲れて油断をした白狼天狗のわき腹に刀を突き刺したのだ。
 天狗はそれで死んだわけではないが、負けを認めて降参をしたのだ。
 
 おもしろい。天狗とこれだけ張り合える実力を持っているのなら、私のところへ来るのも時間の問題だろう。
 早く来て欲しい。また私に憎しみの眼差しを向けて欲しい。
 今日はもう満足してしまった。あえて彼の前に現れないまま帰ることにしよう。
 私は彼の横顔を堪能し、スキマの中へ潜った。


   ※後編に続く


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